頭の中はこんなもんです。


やっぱり日本語はITには向かない? / 2013年6月22日

先日、日本語版ハフィントンポストで「“俺”ではなく”俺たち”を自慢する日本人」という記事を見つけた。

記事自体の趣旨とは違ったのでけれど、下記の一文を読んで、なるほどなという妙な納得感を感じた。

「あらゆる出来事をネガティブにとらえてしまうのがうつ病だとされていましたが、最新の研究では、彼らの自己認識は正確すぎてポジティブな勘違いができないのだと考えられるようになりました。」

統計的にどうなのかはよくわからないけど、IT業界(特にプログラマなど)にうつ病になる人が多いと聞く。
その原因について、「IT関連の人間にはオタクが多く、すなわち一般的なコミュニケーション能力に問題があり、引きこもりがちな性格からうつ病になるのだ。」的な評価というか判断を耳にすることがあるのだが、やっぱりどうも違うように感じていた。
その「どうも違う」と感じる理由がこの記事を読んでわかった気がしたのだ。

プログラミングという作業は、モノやコトを一つずつ事細かく”定義”して、それぞれが間違いなく正確にコンピュータが処理できるように、ToDoリストを作る作業だ。

モノの定義、コトの定義によってプログラム異なる。当たり前のことだ。

プログラムの開発は、その最初の段階で必ず要件定義というのをやる。
何を作ろうとしているのか?どういう動作をして欲しいのか?というのを、プログラムを作って欲しい側と実際に作る側の間で確認するのだ。

プログラマはそこで決められた定義に基づいてプログラムを書いて行くのだけれど、この段階で問題が発生する。
定義があやふやなのだ。

定義書に基づいて、その通り作ったにもかかわらず、「いや、そこはそうじゃなくて、こういう意味だよ」なんて言われて修正することはしょっちゅう起こる。
その度にプログラマの作業は増える。しかし納期は変わらない。
開発費だって上乗せされることもない。

プログラマからすると、「打ち合わせで、こう定義したことは確認済みだろ。」「自分は定義通りに間違いなく仕事をしてる。」「クライアントの意向が第一なのはわかってる。」「でも、しわ寄せは全部自分に覆いかぶさってくる。」と言う思いがたまる。

はたして、プログラマはうつ病に追い込まれて行くのだ。

定義書が不十分だった?
勿論それもある。
でもそれだけではないように思う。

  • 「そこんとこ、うまくやっておいて」と言う日本人のコミュニケーションのやり方。
  • そしてもう一つは、日本語という言語が物事を正確に定義するには向かない言語だということ。

これら二つのことが、プログラマをはじめとするIT業界人間をうつ病に追い込んでいるのではないか、と僕には思われるのだ。

プログラムする上で、言葉の定義はとても重要で、繊細なものだ。
そういう意味でプログラマは言葉に関してとても敏感な人たちだと言える。

そんな言葉に敏感なプログラマが、定義のあやふやな日本語の世界で(ましてやプログラミングというものに対して、一般的な理解の低い社会において)仕事をするということは、孤立しやすく、理解もされず、うつ病に追い込まれるのは当然のように思われる。

彼らのコミュニケーション能力に問題があるのではない。
いい加減な(「心ない」と言ってもいい)対応や言葉が、彼らを苦しめ、追い詰めているのだ。

デジタルデバイドという言葉があるが、一般的にはITの知識のない者の不利益を問題視しているようだ。
でも、その知識の格差がITのスキルを持っている者を苦しめている現実もあるように思う。

すべての人がプログラミングなどの知識を身につける必要があるとは思っていない。
でも、わからないなりに従事者を慮っていただきたいとも思う。

そして僕は、このITのスキルや知識の有無のギャップを埋める何かを考え出したい。

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