頭の中はこんなもんです。
価格が設定されていないものに価値はないのか? / 2010年6月4日
糸井重里さんのツイッター(http://twitter.com/itoi_shigesato)にこんな文章がありました。
「か つて、あるコンビニのレジに1円玉を入れる箱があって「必要な方は使ってください。不要な方はお入れください」と記されていた、と。しかし、それは「こど もに1円の価値を教えているのに、そんなことをされたら困る」という投書から、中止になったという。なんだか残念だなぁと思ったぷう。」
「困る」と、投稿した人にとっては、無償でやり取りされるこの「1円玉」には、1円の価値がないと言うことだったんでしょうかね?
1円”玉”には、1円の価値。
それはそうなのだろうけど、その1円の価値というのは、人によって違うように思うのです。
1円玉にせよ5円玉100円玉、1000円札でも1万円札でも、ものとしての価値は同じでも、その額面の持つ意味というか、価値は人によって違うのじゃないですか?
箱の中に入った1円が便利だったり、助けられる人っがいて、その人にとって1円玉は1円以上の価値があるのじゃないのか?って思う。
そういう助けられる人を思って1円を箱に入れる人は、(単純に小銭入れに入れるのが邪魔臭かっただけかも知れないけど)イイコトしたと言えるんじゃないのかな?
イイコトしたと自分自身で思っていいのじゃないかな?
無償でイイコトをすると、そのイイコトに使われた”もの”は、価値がなくなるのかな?
まぁ、大げさに言う程の事でもないのかも知れないけど、価格や額面でしか価値を評価できないというのは、違うように思うのです。
例えばこれが1円玉じゃなくて、1万円札だったらどうなんだろう?と下世話に考えたりもするのだけれど。。。
でも、本当に”不要な方”が箱に1万円札を入れて、本当に”必要な方”がその1万円札を使う循環が成り立ったなら・・・。本当に生活に困っている人が生きていくために役立つかも知れない。
「ええ話」にはならないのやろうか?
今時、その方が気持ち悪いと言われるのが関の山かなぁ?